おとなの夜学 第53夜「躍進日本大博覧会から 岐阜公園の未来まで 民間主役の岐阜公園開発史」を開催しました

  • 2025年3月 6日

 第10期3回目の夜学を令和7年1月22日に開催しました。金華山のお膝元にある岐阜公園は市民の憩いの場として親しまれていますが、この場所がたどってきた歴史についてみなさんはご存じでしょうか? 知られざる岐阜公園の物語を、林リウイチさん(アーティスト)と、出村嘉史さん(岐阜大学社会システム経営学環 教授)がそれぞれの視点から紐解いていきます。

 林さんは、古書店で「躍進日本大博覧会」のパンフレットを偶然見つけました。鵜をモチーフにした前衛的なデザインに戦前の日本の高い芸術性に驚き惹かれた林さんは、この博覧会のことをもっと知りたくなり、図書館などで昔の新聞記事を集め、記事のスクラップを時系列データベース化しました。
 この博覧会は昭和11年に近代科学と地域振興を図るために開催され、岐阜公園を含む長良川畔周辺を会場に大々的に開催されました。新聞記事からは、台湾館の目玉として輸入した台湾リスの脱走や、当時の岐阜市長・松尾国松が会場内で迷子になり放送で呼び出されたことなど、くすっと笑える風刺と愛嬌たっぷりの記事からは当時の風俗や大らかな気風などが立体的に伝わってきます。

 では舞台となった岐阜公園はどのように形成されていったのでしょうか。都市形成史のスペシャリスト・出村さんは、岐阜公園は当時のまちづくりの考え方を「鏡」のようによく映していると言います。
 日本では明治時代に入り、欧米都市が有していた「公園」という施設を明治政府が導入することを計画し、明治6 (1873)年に太政官(当時の最高官庁) から布達が出されました。岐阜県では明治6年に高山市の高山公園 (現・城山公園)、続いて明治15年に岐阜公園、大垣公園ができました。
 岐阜公園の開墾は、費用は周辺の町から用立てし、作業は土木技術を持つ岐阜県が出張し官民連携して作っていきました。民間が発注して県が開墾する。この図式は近代岐阜のまちづくりの特徴で、おとなの夜学第47夜「その時岐阜が動いた」にも町衆と行政の関係が登場しましたよね。(ぜひブックレット16号で)
 近代岐阜のまちづくりでは行政と町衆がタッグを組み官民懇親会を結成して、力を合わせて「岐阜」というまちを作っていったことが、地図や新聞記事、資料から読み解くことができると、出村さんは語ります。

 明治以降の岐阜のまちづくりについては話が尽きず、第2弾開催を心待ちにする夜となりました。

 おとなの夜学ホームページには、イベントの様子を記録した動画があります。気になる方はぜひチェックしてみてくださいね。
おとなの夜Youtubeページ(別のページに移動します)

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