岐阜に咲いた児童文学 -わたしとコボたち-

  • 2018年2月16日

 2月3日(土)、岐阜の児童文学座談会「岐阜に咲いた児童文学」が開催されました。 岐阜の児童文学雑誌「コボたち」。全国でも珍しい児童文学に特化した月刊誌です。現在は休刊していますが、1972年から21年間、岐阜で出版され、児童文化の発展に寄与しました。「岐阜に咲いた児童文学」は、コボたちから生まれた多くの文学や文化活動に焦点を当て、さまざまな立場でこのコボたちに携わった方からお話を聞く座談会です。ゲストは岐阜児童文学研究会会長の稲垣和秋さん、児童文学作家の角田茉瑳子さん、舞台脚本家のいずみ凜さん、そして、フリーアナウンサーの河村たか子さんです。吉成図書館長が聞き手をつとめ、岸武雄さんが創刊号に寄せた『「コボたち」よ』の詩の朗読からイベントがはじまりました。

 そもそもコボたちは、だれが、どんな思いでどのように始め、作っていったものだったのでしょうか。
まず、稲垣さんからその歴史についてお話しいただきました。1962年に5人の有志が創立した岐阜児童文学研究会が、高度経済成長期に急速に発達したテレビや漫画社会に危機感を持ち、「子どもの心を養う良質の文学を提供したい」という思いで作ったものだそうです。 「子どもの本研究会」や「童画研究会」「おやつ委員会」など、たくさんある会から選ばれた作品が編集、掲載され雑誌になります。そこでの経験が創作活動の刺激になったという角田茉瑳子さん。作品を評しあう討論の場は、「自分の中の井戸を掘っていく」作業だったとおっしゃいます。 また、集まってくる作品の編集をされていたのがいずみ凛さん、河村さんはアナウンサーとして番組の取材を通してコボたちに関わられるようになりました。

 コボたちは資金がなく、原稿料も出ない中でたくさんのボランティアの手に支えられてきました。IMG_0586_s.JPG
図書館で募集していた「わたしとコボたち」のエピソードにはおむつをした子どもをおんぶして編集室に通った思い出を寄せてくださった方もいます。
たくさんの大人が「よってたかって」子どもと文化のことを考えて作ったコボたち。
ゲストの方々は宝の山のようなおもしろい場だったと当時を振り返られました。

 コボたちは生きていくために必要な米やパンではありません。
ですが、「虹のようなものだ」と稲垣さんは語られました。
ふと立ち止まった時に見上げた空にかかっていた虹のように、心が動かされ、いつまでも心に残るものは決して時間が経っても古びてしまうことはありません。

角田さんは本は心の栄養とおっしゃいました。ないと幸せになれない、健康にはなれないのが言葉なのだと力強く語られたのが印象的でした。また、角田さんは一番大事なのは感性だと、物はなかったけれど心が幸せだった、「あそぶこと」を作るのが楽しくてしょうがなかった子ども時代についても語ってくださいました。
当時、自然の中で命と向き合い全身で会話する中で感性を磨き、たくさんの言葉が生まれました。
子ども時代にさまざまなものに触れてきたことが今、書くことにつながっているそうです。
 
いずみさんは子ども時代はコボたちの読者でした。たくさんの大人が「よってたかって」子どものことを考え作っていたなんて知らなかった子ども時代。たまにぱらぱらと読む雑誌でしかなかったけれど、その「ぱらぱら」がいまでも確実に胸に残っているそうです。大人になり、編集に携わるようになって自分の周りに子どものことをあれだけ考えていた大人がいたのだ、という事実にとても勇気づけられたと話してくださいました。

 座談会を通じて実感したのは「何かをやり続ける大人が居続けること」の大切さです。
「コボたち詩コンクール」は現在も続いており今年も2000点以上の詩が集まりました。
岐阜には子どもたちによい文学を届けたい、子ども達をみつめていきたいという大人が変わらずたくさんいます。
河村さんもおっしゃっていましたが、現在休刊しているコボたちの復刊も夢ではないのかもしれません。
ただ昔はよかったと懐かしむだけでなく、未来を見つめ、進んでいく決意をするような会になったと思います。

図書館では展示グローブで「岐阜に咲いた児童文学」の展示を行っています。
岐阜の児童文学を巡る動きと、当時コボたちに携わったさまざまな人の思いの一端が垣間見える内容になっています。
ご参加くださった皆さんも当時を振り返りながらイベントの後いつまでも展示を見てくださっていました。
来館者のみなさんや当日ご参加くださった皆さんからいただいた「私とコボたち」メッセージの紹介などもしています。
ぜひ足をお運びください。

 コボ展示.JPG